2014年10月27日
研究保育の見方・・・「発見的理解」
園庭を歩く。
特に、「変化」なし。
・・・とすれば、観察不足なのです。
すでに、園庭の至る所では、春の準備が始まっています。土の中から、芽を出していたり、木々の至る所にふくらみを付けていたりしているのです。
「春に向かってのストーリー」は、確かに始まっているにもかかわらず、それを見つけられずにいることがあります。
実は、教育活動(保育を「教育活動」と、言う方が適当ではないかと、自分の中で検討中)を見る目も同じです。
教室の中に、いろんな「遊びのストーリー」が、必ず存在します。それを見ることが出来る人と、「断片的な姿の羅列」しか見えていない人がいます。
ストーリーを見つけることが出来るようになるには、全体と個が見えている必要があります。
全体の子ども達の動きを目に入れて見ています。どこかのタイミングで、ズームアップし、ある子ども達を追いかけるようになります。そのタイミングは、例えば、その子どもの視線の先を一緒に見ることから始まることがあったりします。その子どもがどこを手どんなことを感じているのかを理解することが出来れば、その子の遊びのストーリーに乗っかっていけます。
あるいは、子どもが人・ものへの出会いの瞬間をとらえることから、理解できてくることもあります。出会いのあった子どもと、どのような交流をしているのか、あるいは、そのものにどう関わろうとしているのかをきっかけに、遊びのストーリーに乗っかっていけるのです。
その子どもの気持ちに乗っかって、その子どもになったごとく、「うちの目」で同化しストーリーを追っていきます。
また、有る瞬間、その子どもから離れて、その子どもを「外の目」で見つめて、何が起こっているのかをみます。
このような作業を通して、幼稚園の教育活動が楽しくみれるのだと、最近気付きました。
実は、「うちの目」と「外の目」で、物語を読んでいくというのは、小学校における文芸作品の読み方なのです。「その人物になりきる「同化体験」と、その人物を外から見つめる「異化体験」をすることが、物語の読み方なのです。
幼稚園における子どもたちの遊びを観察するのは、「小学校における、文芸作品の見方」であり、まさしく、今、ここで、子ども達が、物語を創っていく姿を生で味わわせてもらっているのが、研究保育なのだと思います。
ところで、子ども達は遊びのストーリーを見せてくれますが、そこにいる担任の何をどう見たら良いのでしょう。
私の机に一冊の推理小説が置かれています。
その物語は、当たり前のことですが、何度読み直しても、最後の結末はそのままです。
しかしながら、「子ども達が、今、ここで創っている生のストーリーは、結果は環境によって変化します。」例えば、子ども達が作品を作っているのですが、折り紙だけが用意されていたなら、折り紙だけの作品になるでしょう。しかし、そこに、ボタン・落ち葉、端切れ等々を用意しておいたら、それらを利用した全く違った作品になるでしょう。
教師は、子ども理解が出来ているならば、子ども達が自分らしく表現できて遊べるように、事前に教室に必要で有ると思う物がある環境を創っておくでしょう。
また、その活動時間にも、子ども達に適切な関わりをするでしょう。
教育活動を見せてもらう物は、物的な環境と、人的な環境である教師の子どもへの関わり方をみながら、それらの環境と出会った子どもが、どのように、遊びのストーリーを意味ある良いものに動いていくのか、その生の物語を見せてもらいます。
教師も子どもと歩む中で「発見的理解」をしながら、良い環境を提供していきます。見ているものも、今起こっている遊びのストーリーを「発見的理解」しながら見守ります。
その先生の教育活動の指導を見せていただくことは、本当に値打ちの有ることだと思います。
和歌山市幼稚園研究会では、近々6つの研究保育がなされ、公立幼稚園の全教師が参加し、子ども達の活動を見せていただき、教師が教育活動をどうつくっていけば良いのかを話し合います。
実りある会となってほしいと思っています。
日本の美しい「実りの秋」の始まりです。教育の世界においても「実りの秋」となるように、研究ほい木の機会を大事にしたいと思います。
1時を回った今の時間です。夜中のラブレターと同じで、気持ちだけが先走りしているかもしれません。でも、今、研究授業の見方のことで、メモしたくなったのです。幼稚園研究会会長の夜の独り言かも知れません。
老婆心ながら、・・・「ストーリーがみえなかった」だけでは、参加した意味が薄れます。
まずは、自分ならということで良いので、「その教育活動の、7つ、いいなあと思うところをメモする。3つの改善点をメモする」と、職員に言っています。研究保育を見に出張したときは、それを報告していただくことにしています。
特に、「変化」なし。
・・・とすれば、観察不足なのです。
すでに、園庭の至る所では、春の準備が始まっています。土の中から、芽を出していたり、木々の至る所にふくらみを付けていたりしているのです。
「春に向かってのストーリー」は、確かに始まっているにもかかわらず、それを見つけられずにいることがあります。
実は、教育活動(保育を「教育活動」と、言う方が適当ではないかと、自分の中で検討中)を見る目も同じです。
教室の中に、いろんな「遊びのストーリー」が、必ず存在します。それを見ることが出来る人と、「断片的な姿の羅列」しか見えていない人がいます。
ストーリーを見つけることが出来るようになるには、全体と個が見えている必要があります。
全体の子ども達の動きを目に入れて見ています。どこかのタイミングで、ズームアップし、ある子ども達を追いかけるようになります。そのタイミングは、例えば、その子どもの視線の先を一緒に見ることから始まることがあったりします。その子どもがどこを手どんなことを感じているのかを理解することが出来れば、その子の遊びのストーリーに乗っかっていけます。
あるいは、子どもが人・ものへの出会いの瞬間をとらえることから、理解できてくることもあります。出会いのあった子どもと、どのような交流をしているのか、あるいは、そのものにどう関わろうとしているのかをきっかけに、遊びのストーリーに乗っかっていけるのです。
その子どもの気持ちに乗っかって、その子どもになったごとく、「うちの目」で同化しストーリーを追っていきます。
また、有る瞬間、その子どもから離れて、その子どもを「外の目」で見つめて、何が起こっているのかをみます。
このような作業を通して、幼稚園の教育活動が楽しくみれるのだと、最近気付きました。
実は、「うちの目」と「外の目」で、物語を読んでいくというのは、小学校における文芸作品の読み方なのです。「その人物になりきる「同化体験」と、その人物を外から見つめる「異化体験」をすることが、物語の読み方なのです。
幼稚園における子どもたちの遊びを観察するのは、「小学校における、文芸作品の見方」であり、まさしく、今、ここで、子ども達が、物語を創っていく姿を生で味わわせてもらっているのが、研究保育なのだと思います。
ところで、子ども達は遊びのストーリーを見せてくれますが、そこにいる担任の何をどう見たら良いのでしょう。
私の机に一冊の推理小説が置かれています。
その物語は、当たり前のことですが、何度読み直しても、最後の結末はそのままです。
しかしながら、「子ども達が、今、ここで創っている生のストーリーは、結果は環境によって変化します。」例えば、子ども達が作品を作っているのですが、折り紙だけが用意されていたなら、折り紙だけの作品になるでしょう。しかし、そこに、ボタン・落ち葉、端切れ等々を用意しておいたら、それらを利用した全く違った作品になるでしょう。
教師は、子ども理解が出来ているならば、子ども達が自分らしく表現できて遊べるように、事前に教室に必要で有ると思う物がある環境を創っておくでしょう。
また、その活動時間にも、子ども達に適切な関わりをするでしょう。
教育活動を見せてもらう物は、物的な環境と、人的な環境である教師の子どもへの関わり方をみながら、それらの環境と出会った子どもが、どのように、遊びのストーリーを意味ある良いものに動いていくのか、その生の物語を見せてもらいます。
教師も子どもと歩む中で「発見的理解」をしながら、良い環境を提供していきます。見ているものも、今起こっている遊びのストーリーを「発見的理解」しながら見守ります。
その先生の教育活動の指導を見せていただくことは、本当に値打ちの有ることだと思います。
和歌山市幼稚園研究会では、近々6つの研究保育がなされ、公立幼稚園の全教師が参加し、子ども達の活動を見せていただき、教師が教育活動をどうつくっていけば良いのかを話し合います。
実りある会となってほしいと思っています。
日本の美しい「実りの秋」の始まりです。教育の世界においても「実りの秋」となるように、研究ほい木の機会を大事にしたいと思います。
1時を回った今の時間です。夜中のラブレターと同じで、気持ちだけが先走りしているかもしれません。でも、今、研究授業の見方のことで、メモしたくなったのです。幼稚園研究会会長の夜の独り言かも知れません。
老婆心ながら、・・・「ストーリーがみえなかった」だけでは、参加した意味が薄れます。
まずは、自分ならということで良いので、「その教育活動の、7つ、いいなあと思うところをメモする。3つの改善点をメモする」と、職員に言っています。研究保育を見に出張したときは、それを報告していただくことにしています。
Posted by 未来 at
01:46
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