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2014年06月07日

遊びと、教師の役割

遊びとは、生活全てである。なので、生活における教師の役割と言ってもよい。
間違った保育者は、例えば、6月なので「カタツムリの制作」を子どもとする。それが、授業と思い、そのあとは「休み時間」のように、考えている様子がうかがえる。
悲しいことである。
1日の全体をひっくるめて、子どもの学ぶ場ととらえる必要がある。制作をしている場だけが、遊びすなわち学びの場ではない。

さていろいろな遊びが展開している。
遊びがおもしろいから、子どもが主体的に関わろうとする動きが見られるようになる。より、このあそびをおもしろくしよう、より楽しくしようと、主体的な動きが出るためには、そこに「適切な環境」が必要である。
環境にぬけてはならないのが「保育者のありかた」という人的環境であると思っている。
保育者が、ただ放っておいても遊びの発展がとぼしくなる。教師が、子どもを理解して、子どもが燃えるためのガソリンと、熱を加えることで、子どもが勢いよく燃え楽しい遊びが展開されるようになる。

教師のセンスといえば、それもないことはない。「斉藤の名人芸の跳び箱指導」でないけれど、私たち平凡な教師でも、何が大事なのかを法則化とはいかなくても、一般化させる必要がある。

私案として、自園教育計画にのせている。「良い保育とするために」である。(機会が有ればどうぞ)
まず、その下敷きとなるのは、マズローの欲求五段階説であると思っている。
その上に立って、「子どもとあゆむ」姿勢である。子ども理解と共に、共に時間を過ごし・・・時間の共有、そして、共に喜ぶ・・・共に感じる、ことである。そして、半歩先をイメージし教師が一番楽しむ心を持って環境を創っていくことである。

教師が、大声を出しながら、保育している姿は、共に生活している姿ではないから、その保育は、間違っているだろう。そこに一緒に歩んでいる姿から、良い保育というものを探っていきたいものである。子守でなく、自分が教師であるなら。

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