2014年06月29日
ぞうきんがしぼれる手に(毎日のぞうきんがけ)
毎日ぞうきんがけをしている。しかし、教師の「意図」が、組織として明確になっていない。
「ぞうきんがしぼれる手に」を目当てとしたい。
3歳は、先生がぞうきんの絞り方を毎日見せながらのぞうきんがけの掃除になる。
4歳では、自分で絞る子も出てくるだろう。
5歳では、ぞうきんを自分の手で「絞れる手」にする。
各クラスに、7こずつちいさめのバケツが用意している。しかし、たくさん使われていない。
じぶんで絞る毎日の体験を重視していないからである。
「しぼる」ということを、教師がしっかしと意識的に持っていると、バケツもでてくるはずである。
もちろん、裏の目的は、逆さ感覚をやしないながら、腕で自分の支えることが出来るようにし、全員が逆上がりが出来るようにすることである。
「ぞうきんがしぼれる手に」を目当てとしたい。
3歳は、先生がぞうきんの絞り方を毎日見せながらのぞうきんがけの掃除になる。
4歳では、自分で絞る子も出てくるだろう。
5歳では、ぞうきんを自分の手で「絞れる手」にする。
各クラスに、7こずつちいさめのバケツが用意している。しかし、たくさん使われていない。
じぶんで絞る毎日の体験を重視していないからである。
「しぼる」ということを、教師がしっかしと意識的に持っていると、バケツもでてくるはずである。
もちろん、裏の目的は、逆さ感覚をやしないながら、腕で自分の支えることが出来るようにし、全員が逆上がりが出来るようにすることである。
Posted by 未来 at
10:17
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2014年06月07日
遊びと、教師の役割
遊びとは、生活全てである。なので、生活における教師の役割と言ってもよい。
間違った保育者は、例えば、6月なので「カタツムリの制作」を子どもとする。それが、授業と思い、そのあとは「休み時間」のように、考えている様子がうかがえる。
悲しいことである。
1日の全体をひっくるめて、子どもの学ぶ場ととらえる必要がある。制作をしている場だけが、遊びすなわち学びの場ではない。
さていろいろな遊びが展開している。
遊びがおもしろいから、子どもが主体的に関わろうとする動きが見られるようになる。より、このあそびをおもしろくしよう、より楽しくしようと、主体的な動きが出るためには、そこに「適切な環境」が必要である。
環境にぬけてはならないのが「保育者のありかた」という人的環境であると思っている。
保育者が、ただ放っておいても遊びの発展がとぼしくなる。教師が、子どもを理解して、子どもが燃えるためのガソリンと、熱を加えることで、子どもが勢いよく燃え楽しい遊びが展開されるようになる。
教師のセンスといえば、それもないことはない。「斉藤の名人芸の跳び箱指導」でないけれど、私たち平凡な教師でも、何が大事なのかを法則化とはいかなくても、一般化させる必要がある。
私案として、自園教育計画にのせている。「良い保育とするために」である。(機会が有ればどうぞ)
まず、その下敷きとなるのは、マズローの欲求五段階説であると思っている。
その上に立って、「子どもとあゆむ」姿勢である。子ども理解と共に、共に時間を過ごし・・・時間の共有、そして、共に喜ぶ・・・共に感じる、ことである。そして、半歩先をイメージし教師が一番楽しむ心を持って環境を創っていくことである。
教師が、大声を出しながら、保育している姿は、共に生活している姿ではないから、その保育は、間違っているだろう。そこに一緒に歩んでいる姿から、良い保育というものを探っていきたいものである。子守でなく、自分が教師であるなら。
間違った保育者は、例えば、6月なので「カタツムリの制作」を子どもとする。それが、授業と思い、そのあとは「休み時間」のように、考えている様子がうかがえる。
悲しいことである。
1日の全体をひっくるめて、子どもの学ぶ場ととらえる必要がある。制作をしている場だけが、遊びすなわち学びの場ではない。
さていろいろな遊びが展開している。
遊びがおもしろいから、子どもが主体的に関わろうとする動きが見られるようになる。より、このあそびをおもしろくしよう、より楽しくしようと、主体的な動きが出るためには、そこに「適切な環境」が必要である。
環境にぬけてはならないのが「保育者のありかた」という人的環境であると思っている。
保育者が、ただ放っておいても遊びの発展がとぼしくなる。教師が、子どもを理解して、子どもが燃えるためのガソリンと、熱を加えることで、子どもが勢いよく燃え楽しい遊びが展開されるようになる。
教師のセンスといえば、それもないことはない。「斉藤の名人芸の跳び箱指導」でないけれど、私たち平凡な教師でも、何が大事なのかを法則化とはいかなくても、一般化させる必要がある。
私案として、自園教育計画にのせている。「良い保育とするために」である。(機会が有ればどうぞ)
まず、その下敷きとなるのは、マズローの欲求五段階説であると思っている。
その上に立って、「子どもとあゆむ」姿勢である。子ども理解と共に、共に時間を過ごし・・・時間の共有、そして、共に喜ぶ・・・共に感じる、ことである。そして、半歩先をイメージし教師が一番楽しむ心を持って環境を創っていくことである。
教師が、大声を出しながら、保育している姿は、共に生活している姿ではないから、その保育は、間違っているだろう。そこに一緒に歩んでいる姿から、良い保育というものを探っていきたいものである。子守でなく、自分が教師であるなら。