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2015年03月04日

三月は、まとめと準備の月

三月は、まとめと準備の月。

すでに、日程ができあがりつつあります。
来年度すること

1.毎日職場日報
2年間日報を出しています。
なぜするか。
「記憶より、記録」と、考えているからです。というか、書かないと、忘れてしまうからです。
できるだけ、すべてのことをメモしています。
先生方の「週案」も読ませてもらい、この場面を見に部屋に入ろうとおもうばめんをも書いています。
この目当てで、案をたてているが、それが子供にどうなっているのかを楽しんでいます。
それを書いておかないと、ついつい、仕事がつらつらあり、部屋に行きそびれてしまうからです。
しっかり楽しみたいと思います。

2.ひきつぐための資料整理
整理整頓です。
資料をまとめて、次の方にスムーズに引き継ぎたいと思います。

3.毎日紙芝居
これも2年しています。続いて、昼休みに紙芝居をします。

4.毎日ブログ9時に配信
職場ブログです。これも2年続いています。
園の記録です。
これも大事と思っています。園の記録も、記憶は曖昧、すぐに忘れます。
記録に書き留めたいと思います。




  
Posted by 未来 at 00:51Comments(0)

2015年02月19日

人権研修からかえって。

個人ブログですが、公人ですので、・・・。責任ある書き方でなくてはと思っています。

今日の研修で「命」のことでのいろいろな考えが出ました。
その際、「私も、下に書いたような出来事があった。それは、メモしている」と発言しました。
間違いなく、実際に、書き留めていました。

「記憶より、記録」が、口癖です。
自分ながらに、ここにメモしていたのがありがたいと思っています。

飼っていたウサギの死を命の大切さとの関係で、どのように教材にするかという話でした。
私は、今でも、下記の先生方の取り組みは、間違っていなかったと思っています。

それぞれの園でも、考えてみる機会とされればいいと思います。


2008年5月にこの記事があります。(死という検索をしていただければ、5月17日・19日にあります。)
・・・・・・・
【別れの儀式】
9年以上園にいた、うさぎが死にました。
8時に日直の先生が、エサをあげに行き発見。昨日は、えさも食べていたし、ふだん通りだったようです。
職員朝礼で、各部屋でこのことをどう指導するのかを話してもらいました。私からは、単に、かわいそうだという先生からの話だけになり、悲しさが子どもの心にたまってしまわないように、どのような形であれ「さようならの儀式」をしておくようにお願いしました。
 3才のクラスは、その飼っていたところの前で「くろちゃん、さようなら」と、大きな声で、空に向かって声を出していたようです。5歳児は、カードや、小さな画用紙に、自分の思いを表して、お墓に一緒に持って行ってくださいと、職員室に先生と一緒に持ってきました。

 朝、八時にそのことを見つけたとき、先生は涙を流し顔をぐしゃぐしゃにしながらもていねいに箱に入れてあげていました。また、違う先生も、飼っていた小屋の前で、子ども達にお話しする際、涙を流しながら話されていました。きっと、本気になってそれらのことの話し伝えていると、感情も一緒に出てくるのだと思います。だからこそ子ども達も、一緒に感情を共感できるのだと思います。
 命あるものは、必ずなくなります。園でそのような場面があったときに、そのことをどう取り扱っていけばいいのかを考えた一日でした。

【くろちゃんへのお手紙】
くろちゃんが飼われていた、小屋に「手紙」が掲示されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○○幼稚園のみんなと、なかよしだったぼくのだいすきなウサギのクロちゃんが
おじいさんになってなくなりました。
とおいとおいそらのむこうで 
おほしさまになってみんなをおうえんしてくれています。

ふじぐみさんが クロちゃんに おわかれのおてがみをかいてくれました。
ばらぐみさんは クロちゃんに おわかれのはなをプレゼントしてくれました。
ももぐみさんは クロちゃんに 「クロちゃんあそんでくれてありがとう」と
いってくれました。

ぼくは クロちゃんがいなくなって とても さびしいです。
でも ぼくは ○○ようちえんのみんなが やさしくしてくれるので がんばれそうです。
これからも ぼくと なかよくあそんでね。
そして クロちゃんのことも わすれないていてあげてね
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3歳児を受け持つ先生が、これをウサギ小屋の前に掲示して良いですかと、見せてくれました。
私は、なにも指示していないのに自分で考えて、この手紙を書いてくださったのです。
一匹(1わのほうがいいのでしょう)残った しろちゃんに なりかわって書いてくださったようです。

各クラスで さようならの儀式をしたのを受けて、このような掲示があればいいと考えてくださったのです。
全体のことを考えて、自分から動いてくださる姿勢が、とてもうれしいなあと思うのです。

ありがとうございます。
   
Posted by 未来 at 18:08Comments(0)

2015年02月16日

ある先生からの嘆きのメール

突然に、今しがた、メールが入ってきました。

ある幼稚園のクラス便りを見てどう思うかと言うことでした。
クラス便りの記事を要約すれば、「劇のみどころの1つ」と言うタイトルで、子どもの「要領が悪いところ」が一つのみどころというようなものでした。

文章の主語述語の問題もありましたが、この内容にびっくりしてしまいました。
このクラス便りをうけとって、子どもたちの生活発表会の劇を、保護者が見ます。
どのように見るのでしょう。

それ以前に、これをもらったとき、私なら、我が子がどのように動くのか、気が気ではありません。
どうして、これが「見所」というタイトルで出されるのでしょう。

子どもの人権を大切にできていない。
教育現場ではないと、私は、そのメールに今、返信しました。

劇の見所というのですから、
私なら、どういう視点でみてくださいと書くでしょう。

私の園では、このような、子どもの要領の悪さが出ているところが見所などと、考える先生もおらなければ、
このようにクラス便りを出してよいと許可を与える園長もいません。

情けなくなりました。

クラス便りは配る前に、同僚にも渡すでしょうから、同僚どうして゛、互いに教えあいっこをしなければと思います。


先日、私の園では、人権についての研修時間をとりました。
まず、「幼児の人権教育について」自分のまとめを全職員が1分で話しました。
自分の思いをまず出すことが、自分を土俵に乗せることになります。

みんながしゃべっていることを全職員が書き取りました。
それだけでも勉強になります。
職員が順番に行った後、園長の私も言わなければなりません。

そして、その後に、これらの考えを大事にしながら、日頃の実践で、自分が何をしているのかを出し合いました。

■ある先生は、子どもの欠席調べのことを話しました。
毎日の出席調べは、欠席しているお友達のことに思いをはせることが、優しさや思いやりをはぐくむ日々の取り組みである。

このように、欠席調べも、教師が、「思いやりをはぐくむ取り組み」と、考えながら行うのと、単に流れの中でしているというのでは、全く意味合いが違ってきます。意図的教育ですから、意図を持って日々の取り組みを行うことが大事です。
このことだけでも、この時間を持ったことがよかったと思いました。

■朝の子どもの出迎えを言われる先生もいました。
玄関で子どもを笑顔で迎えることも、人権教育に大いに関わりある大事なことを日々しているという意識を再確認できました。

■四季折々の野菜を育て、花を育てていることも、・・・。

■欠席黒板を職員室のにもうけて、二日間の欠席状況が全職員が分かるようにしています。
その子が次に登園したときに、「元気になってよかったね」と、全職員が声をかけられるようにしているのも。
人権教育からの視点でもとても大事なことだねと、・・・。



1つ1つの取り組みが、出され、どのようにそれが大事なのかを意味づけできました。
このように、日頃行っている、教育実践を一つ一つ人権教育の視点から見直すことができたのが、とてもよい研修の時間になったと思います。

実は、幼児教育という言葉には、人権とあえて書いていませんが、幼児教育そのものすべてが「幼児人権教育」を略して言っているいると考えてもよく、幼児教育すべてが人権教育なのです。
それに関わる大事な自分たちの教師の役目を再確認する作業そのものでした。

良い研修の時間は、「記憶より記録」で、先生方全員が、メモしていました。
ありがたいことです。
先生方にお願いしました。
このように「機会研修」と言いますが、一つ一つの乗り切り方に、様々ある。
できれば、今回のように、丁寧に物事を乗り切っていってほしい。
人権研修が、各幼稚園で行われて、来週それを持ち寄ることになっているが、すべての幼稚園で、この機会を捉えて、このように研修するように、先生方が今後、違う幼稚園にそれぞれが勤めるようになったときに、今回のように、どのような研修にしたらよいのかを考えよい研修の時間をつくってほしいと、
遺言をしました。


・・・と、書いたのも
メールの園では、職員の人権感覚を互いに磨き合う、研修する場がないのだろうと思いました。



蛇足ですが・・・
ある他園の先生からのメールで・・・・
寝られなくなり・・・・
遅くなりました。

さて、寝ますか・・・
お休みなさい。

  
Posted by 未来 at 01:38Comments(0)

2015年02月11日

表現(現職教育 資料に)

勤めている縁では、「表現」を今年度の現教にしている。関連したものがあったので、ここに

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○「一週間の音日記」?音を書くということ?
             ノートルダム清心女子大学 吉永早苗
https://www.facebook.com/groups/149441635241603/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 岡山のノートルダム清心女子大学の吉永早苗さんの論考です。「音日記」
の実践についての精緻な省察の報告です。        (石川 晋)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
○「一週間の音日記」-音を書くということ-
             ノートルダム清心女子大学 吉永早苗

 保育・小学校教諭を目指す学生の「聴くこと」に対する意識を高める試
みとして、「一週間の音日記」のレポートを課しています。音日記とは、
その日聴いた音の記憶を文章化するものであり、サウンドスケープの提唱
者であるマリー・シェーファーによるサウンド・エデュケーションのアイ
ディアの一つです。彼は、「聴くという行為はひとつの習慣になってしま
っていて、私たちは聴き方を忘れてしまっているようだ。私たちは、自分
たちをとりまく世界の脅威に対して耳を研ぎ澄まさなければならない。鋭
い批判力をもった耳を育もう」と、音に注意を払い、意識的に聴くことを
呼びかけています。私は、次のように課題を提示しています。

 7日間、『音の日記』を書いてみよう。なにか珍しい音を毎日見つけて、
その感想を日記に書いてみよう。  
 ○あなたの日記に書いてほしいこと。~~たとえば・・・   
  *朝、外に出ていちばん最初に聞いた音は?   
  *ゆうべ寝る前に、最後に聞いた音は?   
  *今日聞いた中で、いちばん大きかった音は?   
  *今日聞いた中で、いちばんきれいだった音は?   
  *今日聞いた中で、いちばんお気に入りの音は?   
  *今日聞いた中で、ドキドキした音?・・・・・  
 ○どうしてそう思ったか、それも考えてみよう。  
 ○昨日に比べて、何か聴き方に変化があったかな?  
 ○気づいたことも書いてみよう。
 学生は7日間、毎日その日の音の思い出を文章に起こします。描かれる
音は「今そこにある音」ではなく、一日の記憶から想起された音です。日
記を書く際に、思い出した音を単に箇条書きにするのではなく、その理由
や自分の聴き方の変化などの気づきを書くことが重要です。そうすること
によって、音に対する観察力の向上が期待されるからです。気づく音の種
類を増やすだけではなく、その音をとおして自己と向き合う機会つくるこ
とが、音日記の魅力だと思います。
 音日記の感想には、「はじめて音日記をつけて、日頃自分がどれほど音
を意識していないかがわかった」といった記述が多くあります。「音への
気づき(意識)」の変化について、その一例を紹介します。
 1日目:「ピン」というオーブンの音にわくわくした。
 2日目:暖房を「ピッ」とつけると「ウィーン」と機械音がし、しば
     らくして「ボー」と温風が出始める。「ガタンゴトン」と電
     車が近付いてきて徐々に大きくなる音に、これから電車に乗
     って行くことを憂鬱にも思いながら、よし明日もがんばろう
     と思う。

 この学生のように、初日の日記には、電化製品の音が多く書かれていま
す。しかし2日目になると、それらの音の変化に気づいたり音に感情を重
ねたりするなど、記述の中身が詳しくなっていきます。

 3日目:自分のヒールの「コツコツ」という音に混じって、雪を踏む
     と「ジャリッ」という音がして、次の一歩を踏み出すために
     地面を蹴ると「ギュッ」というような「ギシギシ」というよ
     うな音がした。

 自らが作り出す音に気づき、自分の動作と音の変化の連動を試していま
す。「音って面白い。私たちの身のまわりには本当に音があふれていて、
音のない世界など存在しないのだなあと深く感じた」といった感想も多く
みられるようになります。

 5日目:聞いていて楽しくなった。普段あまり意識したことがなかった
     が、電車の音もよく聞いてみると面白い。心に余裕があるとき
     には、いつも聞いている音とは違って聞こえると感じた。
 6日目:小雨の音は何となく寂しく感じる。人が少なく、しんとした休
     憩室で口紅を塗り直した自分の口から「パッ」と音がして、恥
     ずかしかった。

 口紅を塗り直したときのほんのかすかな音に対して、静寂のなかに響く
自分の音に恥ずかしさを感じています。音を聴くことへの意識が高まるこ
とは、自分の出す音を客観的に捉えられるようになることであり、それは、
「社会のなかの自分」の存在に気づくことであるように思います。

 7日目:台所に行くと母が居て、お鍋の煮えるグツグツという音、まな
     板の上でトントンという包丁の音、スリッパのパタパタという
     音がする。様々な音に満ちていて騒々しいが、なんとなく安心
     する音である。

 学生は、台所の音を「安心する音」と感じていますが、「台所の炊事の
水の音には何か我々の心を癒す働きがある(谷村2002)」のです。身の回
りの音を「よく聴く」ことで、雑多な生活音のなかに、人びとの営みを見
ることができるようになるのではないでしょうか。
 音に対する気づきの変化は、「聴き方」に対する意識の変化でもありま
す。例えばある学生は、初日には「音は意識しないと聴こえない」と記述
しているのですが、翌日には、「音を文字で書き取ると見えるようになる。
音は目に見えないものなのに、読み直すと、頭の奥や耳の傍で鳴っている
ような気がする」と書いています。さらに3日目には、「自分が微動だに
せず過ごしたとしても、周囲では自分が出さない音の代わりに、何か音が
している」と、意識を集中した音の聴き方が為されています。また、「物
理の授業で習った音の定義とは違う音の感じ方をして、私たちは毎日生活
している」(3日目)、「同じ動きで生じる音も床の材質によって変化す
る」(4日目)、「音の心地よさには視覚や嗅覚も関連している」(5日
目)など、一つひとつの音に意味を感じたり、音の感じ方の分析をしたり
して聴こうとしています。最終日には、「日常の行動をもっと考え直す必
要性があることもわかった」と書いてあり、自分の作り出す音を他者との
関係性で捉えるようになっていることがわかります。そして最後に「音日
記を1週間続けることは辛かったが、とても意義のある1週間だった」と
結んでありましたが、音を聴くことに対して真摯に向き合っていたことが
うかがえます。 

 音日記に綴られる音は音楽音ではありませんが、風に働きかけて多様な
音を聴いたり、降り積もる雪を見て音を想像したりした経験は、鳴り響く
音楽音のなかに心象風景を描くことにつながるでしょう。また、身の回り
の多様な音を聴くことで得た音のストックや、音を想像したり音から連想
したりする経験もまた、豊かな音楽表現につながると期待します。さらに、
音の印象を書く経験は、学生の思考力を向上させています。二例、紹介し
ます。

「音はその人の感情に寄り添うからこそ、人の心を揺さぶるのだろうと思
った。草が風になびいてさやさやいう音でさえ、会話をしているように聞
こえるようになった。音にも命みたいなものがあり、生きているように感
じるようになった。だから、音の一つひとつをないがしろにするのではな
く、ちゃんと聞こうと思った。」

「生活のなかの音に注目していると、不思議だけれど不満が少なくなった。
外から自分のなかに入ってくる音を丁寧に受け入れていると、自分のなか
で、考えや気持ちをじっくり温めることができ、何かが欲しい、して欲し
いという欲求が減ったように思う。自分を知ることは、とても大切なこと
なのだと気づいた。」

 思考力の向上は文章力の向上につながります。小学校教諭を目指す学生
が、「ぜひ実践したい。作文が苦手な児童も文章が書けそうに思います」
と感想を書いていました。学生は、自分自身の記述の深まりを実感したの
でしょう。音日記が提出されたとき、学生には「見たこと作文」を紹介し
ています。

○「音感受教育」のススメ
―音・音楽を聴いて感じる・考えるということ―
             ノートルダム清心女子大学 吉永早苗

 研修等で、「ただ歌っているだけ、ただ楽器を鳴らしているだけの音楽
表現になってはいませんか?」と問いかけてみる。すると、多くの方が頷
きながら笑う。これには二つのパターンがある。まず一つは、歌詞を覚え
て歌うだけ、好き勝手に楽器を鳴らすだけといった表現活動である。もう
一つは、発表会に向けて保育者の号令(合図)にしたがって声や音を発し
ている活動。何れの活動にも、幼児が「音や音楽を聴いてその印象を感じ、
共鳴し、感情を抱き、さまざまな連想を引き起こす心的なプロセス」が欠
けている。私はこの過程を「音感受(おとかんじゅ)」と命名し、音感受
力を高める「音感受教育」を提唱している。
 
A素朴な音を感受する幼児
 音や音楽に耳を傾けることは私たちの生得的な特徴であるが、音や音楽
が氾濫している今日の環境において、私たちはどのように聴くかというこ
とよりも、どのようにして聴かないかを日常の中で選択している。幼児も
その例外ではない。武満は「私たち(人間)の耳の感受性は衰え、また、怠
惰になってしまった」(武満徹『武満徹著作集』新潮社2009)と断言して
いる。保育界においても、「幼児は多くの音を聞いてはいても耳を澄ませ
て聴いてはおらず」(立本千寿子「幼児の音の聴取・表現力と行動特性」
教育実践学論集第12号2010)、「聴くことに向かおうとする姿勢が失われ、
身のまわりの音への気づきも少なくなってきた」(金子弥生「思考する人
を育てる音環境」音楽教育実践ジャーナル第4巻第2号2007)など、近年、
幼児の音に対する感受力の低下が問題視されるようになってきた。
 しかし幼児の遊びを見ていると、大人が聴き逃してしまうような音に対
する微細な気づきにハッとさせられることは少なくない。たとえば、カー
ブした小川の畔を行ったり来たりしている3歳児に理由を尋ねると、「あ
っちとこっちと、音が違う」と教えてくれた。同じように歩いていても、
聴こうとしなければ聴こえない音の気づきである。また、ショベルカーを
手に持って遊ぶ幼児の「ドイージャー」という聞き慣れない擬音は、隣の
工事現場で作業しているショベルカーの音を忠実に表現した擬音であった
り、自分に向けて「ポ?ン」と鳴らされたトーンチャイムの音の軌跡を追
うかのように後ろを向いたりするなど、幼児が遊びの中で、音をしっかり
と感受していることに気づく。加えて、歩くと音のするテラスでリズミカ
ルに飛び跳ねていたり、響きの良いホールでは声を長く伸ばしたりビーズ
を撒き散らしてわざと音を立てたりする等、場の音響は幼児の遊びや表現
をアフォードしている。

B幼児の音感受に着目する―保育者の音感受力を高めるために
 幼児教育においては、こうした幼児の音感受に保育者が気づいていない
ことに問題がある。「表現」という領域が「感性と表現」の領域であるこ
とを再確認し、 音楽表現を音楽の再表現活動ととらえることなく、幼児
の素朴な音への気づきや音の表出行為に注意を向けることによって、私た
ちは幼児の音感受に気づくようになる。
 「幼児の音楽表現は、ほとんどありませんでした」と、保育観察の感想
を言う学生に、「身のまわりの音を聴く行為に注目して幼児を観察する」
という視点を与えると、その記録が著しく変化する。たとえば、「幼児が
『いま、ピーポーピーポーきたな』と教えてくれることで、遠くを走る救
急車の音に自分が初めて気づいた。そして、幼児はどちらの方向から音が
聴こえるのかも感じ取っていた」、「空き缶、皿、ボール、コップ等を叩
いて音の違いを喜んでいた幼児が、空き缶でも大きさが違うと音の異なる
ことを不思議そうにしていた。そしてコップを空き缶の上に置いた場合と
地面に置いて叩いたときの音が違ったことを保育士に嬉しそうに教えてい
た」等、身の回りの音を敏感に感受して楽しんでいる幼児の事例がいくつ
も報告されるようになる。事例から明らかなように、音感受は心的なプロ
セスであるため、それに気づくようになることは、幼児の内面理解につな
がる。

C音楽の感受
 次に、音楽の表現について考えてみよう。幼稚園・保育所における集団
活動としての音楽の表現活動において、領域「表現」の「感じたことや考
えたことを自分なりに表現して楽しむ」というねらいは、本当に実現して
いるだろうか。
 音楽表現は、幼児にとって楽しい活動である。幼児は、保育者や友だち
と一緒に声を出すことや、楽器を鳴らしたりすることを楽しんでいる。加
えて、音楽のリズムにのって身体を動かしたり、歌っているうちに思わず
声が大きくなったり身体が動き始めたりするような楽しさがあるだろう。
それらは拍の流れやその曲の変化を感じることから生まれる音楽的な楽し
さである。つまり、音楽を形づくる要素や曲の仕組みもまた、音楽表現の
「楽しさ」をつくり出す重要な要因なのである。
 そこで、音楽を構成する要素や音楽の仕組みを感受することを表現の「
ねらい」として意識してみよう。そうすると、楽しさの中身が、音の変化
に気づいたり、歌の情景を思い浮かべたり、自分の声や楽器の音などの音
色を考えてみたりするなど、音楽を感受した楽しさとなる。こうした楽し
さこそが、音楽的感性を育むのである。
 岡山市内の17の保育園は合同で、音楽的な「ねらい」を意識した音楽表
現の研究に取り組んでいる。実践を重ねる中で、「注目させたり静かにさ
せたりするために手遊び歌を用いていたが、音の変化や音楽的な流れと身
体表現との連動を、幼児が自ら感じていることがわかった」、「『夕やけ
こやけ』を歌うとき、言葉のそれぞれに反応して“おててつないで”のフ
レーズでは手をつないで勢いよく歌っていた幼児が、保育者が詩のイメー
ジを言葉で説明したり実際に夕焼けを見たりするなどして伝えてみると、
叫ぶような歌声は消え、ゆったりとした温かい感じの歌い方になった」等、
保育者は音楽表現の中での「感じる・考える」プロセスが、幼児の音楽表
現の質を高めることに気づくようになっている。さらに、「保育者が表情
豊かに歌うことで、幼児は、自ら音の動きや強弱を感じとって身体表現に
結びつけるようになる」、「『うみ』では3拍子を拍節的にとらえるとゆ
ったりした表情が失われたので、曲の表情に合った拍子の取り方の工夫が
必要」等、音楽的なねらいを考えて実践することが保育者の音楽的資質向
上につながっている。
 この音楽的な「ねらい」は、楽器を用いた表現活動にも応用したい。た
とえば,手づくり楽器の活動も、楽器を作る楽しさに加えて多様な音色の
追究を目指すことができるだろう。また、保育室で自由に手にとって鳴ら
す楽器も、音を重ねたときの響きを考慮して選びたい。楽器を自由に鳴ら
す楽しさに加えて、その響きの美しさを感受してほしいからである。

D音感受教育の相互作用サイクル
 「音感受教育」とは、「音感受」の質を上げていくことである。質を上
げるとは、素朴な音感受が、それを繰り返す中で豊かで深い意味をもった
音感受に変容していくことである。保育者は、幼児の「音感受」に気づく
ことで、幼児がそこで何を感じているのかを考えるようになる。そうする
ことで、幼児の素朴な音の感受への共感が生まれ、保育者自身の「音感受」
が研ぎ澄まされていくようになる。保育者の「音感受」力が高まれば、幼
児をとりまく音や音楽の環境に配慮が行き届くようになり、音への多様な
気づきが生まれるような音環境や、音楽表現活動が構成されるであろう。
幼児は、自分の前音楽表現に共感してくれる保育者の存在によって、表現
の質を高めていく。このように保育者が自らの音感受を高める過程におい
て、音・音楽環境と幼児、および保育者の三者間には、その質を向上させ
る相互作用が働くようになる。

○環境が育む幼児の音楽表現
              ノートルダム清心女子大学 吉永早苗
ア 表現におけるインプット
 音楽表現は,発表という形態によってその成果が伝えられるため,アウ
トプットのための方法論だけに注意が向けられがちである。しかしその表
現は,それまでの感性的な体験(=目に見えない価値を感じること。しみ
じみと実感し,意味や価値に気づくこと)によって支えられている。「感
じる(気づいたり感情を抱いたりする)・考える(想像したりイメージし
たりする)」というインプットの過程があってこそ,表現活動(アウトプ
ット)は成立する。
 ところが保育における音楽の活動は,アウトプットの領域でのみ語られ
てはいないだろうか。行事や制作発表に追われ,大人主導での表現を作り
出してはいないだろうか。作品としての表現は出来上がったとしても,そ
の作品あるいはその過程に,幼児の感性的体験が存在しているかどうかを,
しっかりと問い直すことが必要である。
 保育の場では,感性的体験の,質と量とが保障されるべきであるだろう。
そしてそれを保障する鍵は、園内の環境をまるごと教材として捉える視点
の転換にあるのではないだろうか。なぜなら,人はモノや出来事に出会う
ことによって知識や体験を得,モノや出来事を介して他人と出会い,関係
性をつくっていくからである。

イ 環境=教材という視点
 保育における環境は,保育室内も廊下も園庭も,そして保育者も含むす
べてが,保育内容としての配慮のもとに整えられている。その環境観は,
主体によって意味づけられ,構成された世界であるという見方である。授
業という形態をもたない保育の営みの中で,幼児は園内の環境とのかかわ
りあいの中で学び,育っていく。たとえばそこにある樹木の,折々の季節
での枝の広がりや鳥のさえずり,紅葉や落葉,雨に打たれる音や風に揺れ
る音といったそれぞれの表情が,そのときどきの保育目標を持った環境=
教材となる。
 今泉(2006)は,教材発掘・選択のルートとして,次の三つのタイプを挙
げ,授業においては,2と3のルートでの体験を増やすことを提案している。
1.授業のねらいや目的から,教材を発掘・選択していく場合
2.教師がある事実や事物に驚いたり,ある作品に感動し,授業してみたい
気持ちに駆られる場合
3.子どもたちの疑問や問いから授業が創られていく場合
 保育における環境観には,この1~3のすべての条件が同時に揃うことに
なる。環境において,幼児は,保育内容の目的どおりの出会いを経験する
こともあれば,そうでないこともある。そしてまた偶然の出会いによって,
予測されない結果を生み出す場合もある。なぜなら,幼児は好奇心の赴く
ままに,遊びや観察をとおして,モノや出来事との新しい出会いを繰り広
げていくからである。したがって保育者は,幼児が常に新しい出会いを展
開し,感性の体験を豊かにしていくような性質の環境を用意しなければな
らない。それは,今ある環境に注意を向け,見直すことから始まる。

ウ 五感体験から導かれる音楽表現
 ピアノの音は,誰が叩こうと,たとえ猫が叩いたとしても同じだと言う
人がいた。確かに,ピアノの音の高さは固定されている。リオタール(2002)
は,「われわれはある色や音を,振動として, その振幅, 波長, 周波数によ
って決定することができる。しかし,ひびきと色合い,これらはまさしく
そうした決定づけを逃れるもの」であり,それは「何らかの音符あるいは
色が, 音響学的あるいは色彩学的連続において占める空間, 自らを同定す
る際の目盛りとなる非常に僅かな空間の内部に, 一種の無限性を導入する」
と述べている。この僅かな空間の内部に導入される無限性の響きや色合い
を導き出すのが, 感性の存在である。その感性の導きによって,タッチや
タイミング,ペダリングやアーティキュレーションなどが決定され,ピア
ノの音は,弾く人ごとに彩りを変える。
 その感性は, 音を観察し(聴取して吟味する), 音をイメージし, また,
音の聴こえない対象からも音を感じ取る体験によって豊かになっていく。
作曲家の久石(2006)は,「作曲をする際の感性の95%くらいは自分の中にあ
る知識や体験などの集積である」と述べている。音のイメージを感じたり
音を創出したりすることは直感的に生み出されるように思われるが, その
直感もまた, それまでの感性の体験に基づいた無自覚な推論の結果なので
ある。
 音楽表現を導くのは, 聴覚による感性の体験だけに拠らない。打楽器の
演奏家であるエヴリン・グレニーは, 8歳の時に聴力を失った。しかし彼
女は, ソロ演奏のみならず, 即興でのアンサンブルまでも行う。アンサン
ブルは, お互いの音を聴きあって音を調和させるという一般の常識を覆し
た彼女は, 収録映像(2007)のなかで, 「音は身体で感じるもの。私たちは
音に触れられる」と言い, さらに,「もし触角という感覚を失ったとして
も, 内なる世界に(第六感によって)音楽は生き続ける」と断言している。
 筆者は講義をとおして,これまでに二人の難聴の学生に出会った。ソル
フェージュの時間には,ハンドサインを用いて音と声の一致を試みたとこ
ろ,二人とも学期末の聴音は満点であった。そしてピアノを受講した学生
には,ある日彼女の手のひらに指を置いて,ピアノを弾くタッチの違いを
伝えることを試みた。すると,笑顔で大きく頷いた彼女の演奏は,期待ど
おりの音色へと変化した。
 また, 絵を見たり物語を読んだりしている時, 私たちは, そこに音ある
いは音楽を感じたり, 臭いや手触りなどまでを感じたりするようなことが
ある。さらに音楽を聴いて, それに風の流れを感じたり, 牧歌的な風景を
見たり, あるいは愛のささやきを聞いたりすることがある。このように,
五感の壁は硬いものではなく, お互いにつながりあっているのかもしれな
い。かつて3歳から6歳の幼児に, 目の前に打楽器を中心とした楽器を並べ
て絵本の読み聞かせを行い, 各ページで感じた音を表現するよう促した。
するとすべての幼児が, 各ページでの音の表現を行った。このとき, たと
えば,椰子の実がはじける場面ではシンバルを用いるなど,同じ場面で共
通の楽器が使用されたり, お祭り騒ぎをしている場面では賑やかに打楽器
を鳴らしたり,あるいは「怖いから何も聞こえない」と, 無音という表現
が見られたりした。幼児は,音楽は聴覚・絵画は視覚という一方向的な感
覚によって対象を捉えてはいないのではなかろうか。
 整えられた保育環境の中で,幼児の感性は, 自ずと育まれていく。そし
てまた, 目的を与えられず行き先を決められない環境の中でもまた, 育ま
れていく。子どもは,環境(=教材)との出会いとかかわりの中で, 「い
ま,自分がここにある」いう瞬間を全身で感じているにちがいない。保育
者は, その出会いを大切にし, その瞬間の感動を共感できる存在でありた
い。

  
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2015年01月03日

ためましょう「子どものよいところ見つけで」

今年の目標は、
「具体的な子どものよいところ見つけ」
です。

よいところを見つけられる先生は、子供を理解しようとしている先生です。
子供を見守っている先生です。
子供を支援しようとしている先生です。

子供のよいところを見つけられないと言うことは、子どもを理解しようとできていない状態です。
教師として、黄色信号だと思います。


「発見的理解」がキーワードです。
発見するのです。
見つけることを楽しみたいと思います。

そして、できれば、振り返りの時間に、あるいは立ち話の時に、
「よいところ見つけ」で見つけたことを伝え合いたいです。


今年の年度当初に「今日見つけをしましょう」と、子どもにも、先生にも話しました。

今日みつけをする姿勢が、豊かな時間を創っていく教師の姿勢だからです。
さて、それをこの三学期は子どもを一つ上のクラスに送り出すための教師の最後の一押しとして学年を締めくくりましょう。
そのための「子どものよいとこみつけ」です。

三学期は、より意識的に、「ほめほめ幼稚園」にしましょう。


もちろん「記憶より記録」です。
ちょっとメモを残すことで、保護者との振り返りはもちろんのこと、学級通信にも書けますし、家庭通信に書く材料にもなります。


  
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2014年11月01日

保育を見せていただく、教師の基礎基本

全く、・・・。
先日研究授業があり、最後に指導助言と言うことで、話をさせていただいた。
その話に入る前に、研究授業を見せていただくときの基礎基本ということを話した。

推理小説を読むと、物語の結末は、決まっている。しかしながら、ここに遊ぶ子ども達のストーリーは、変化する。
例えば小学校での授業の参観者が、あるこどものそばによって、その問題の答えはねえ・・・と、話し始めたら、異様な光景だとすぐ感じる。
幼稚園の教育活動においても、遊んでいる子どもにこちらから声をかけて、その子どもと遊び始めるのは、異様な光景なのである。

もちろん幼児は、人なつっこいから、子どもから声をかけに来る場合が多々ある。
その場合は、対応をきちんとしたらいい。
今回の教育活動の中では、参観者の先生に「絵本を読んで」と、話しかける場面があり、その先生は、「ごめんなさい、担任の・・先生に読んでもらってね」と、返したそうである。ある先生は、子どもがドングリビスケットを配ってきたので、おいしく「ぱくぱく」とおいしくいただいた。私も配ってくれた子どもに、「これはどんなあじのビスケットなの」と聞いた。こどもは、少し考えて「薄塩」言ってまた違うところに行った。

子どもから関わってくるときは、きちんと対応するが、こちらからは極力子どもの遊びを変化させないように見守るのが、礼儀ではないだろうか。
もちろん、危険を感じたり、泣いていたりという緊急なときは、別だが・・。

はじめて見る方であろう。座り込み、特定の子どもとのやりとりを長い時間楽しんでおられた。
教育活動を見せてもらう姿としては、ちょっとちがうのではと感じた。
私は、担任にも言っている。そのこと遊ぶためにいるのではなく、その子が、いきいきと遊びをするために、関わる必要があるときに関わるのだと。
一緒に楽しく遊ぶ場面。応援する場面。見守る場面。どのようなとき、どのように教師の出番として出るのかが、教師の力量ではないだろうか。


  
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2014年10月27日

研究保育の見方・・・「発見的理解」

園庭を歩く。
特に、「変化」なし。
・・・とすれば、観察不足なのです。
すでに、園庭の至る所では、春の準備が始まっています。土の中から、芽を出していたり、木々の至る所にふくらみを付けていたりしているのです。

「春に向かってのストーリー」は、確かに始まっているにもかかわらず、それを見つけられずにいることがあります。
実は、教育活動(保育を「教育活動」と、言う方が適当ではないかと、自分の中で検討中)を見る目も同じです。

教室の中に、いろんな「遊びのストーリー」が、必ず存在します。それを見ることが出来る人と、「断片的な姿の羅列」しか見えていない人がいます。
ストーリーを見つけることが出来るようになるには、全体と個が見えている必要があります。
全体の子ども達の動きを目に入れて見ています。どこかのタイミングで、ズームアップし、ある子ども達を追いかけるようになります。そのタイミングは、例えば、その子どもの視線の先を一緒に見ることから始まることがあったりします。その子どもがどこを手どんなことを感じているのかを理解することが出来れば、その子の遊びのストーリーに乗っかっていけます。
 あるいは、子どもが人・ものへの出会いの瞬間をとらえることから、理解できてくることもあります。出会いのあった子どもと、どのような交流をしているのか、あるいは、そのものにどう関わろうとしているのかをきっかけに、遊びのストーリーに乗っかっていけるのです。
 その子どもの気持ちに乗っかって、その子どもになったごとく、「うちの目」で同化しストーリーを追っていきます。
 また、有る瞬間、その子どもから離れて、その子どもを「外の目」で見つめて、何が起こっているのかをみます。
 このような作業を通して、幼稚園の教育活動が楽しくみれるのだと、最近気付きました。
 実は、「うちの目」と「外の目」で、物語を読んでいくというのは、小学校における文芸作品の読み方なのです。「その人物になりきる「同化体験」と、その人物を外から見つめる「異化体験」をすることが、物語の読み方なのです。
 幼稚園における子どもたちの遊びを観察するのは、「小学校における、文芸作品の見方」であり、まさしく、今、ここで、子ども達が、物語を創っていく姿を生で味わわせてもらっているのが、研究保育なのだと思います。


 ところで、子ども達は遊びのストーリーを見せてくれますが、そこにいる担任の何をどう見たら良いのでしょう。
 
 私の机に一冊の推理小説が置かれています。
 その物語は、当たり前のことですが、何度読み直しても、最後の結末はそのままです。
 しかしながら、「子ども達が、今、ここで創っている生のストーリーは、結果は環境によって変化します。」例えば、子ども達が作品を作っているのですが、折り紙だけが用意されていたなら、折り紙だけの作品になるでしょう。しかし、そこに、ボタン・落ち葉、端切れ等々を用意しておいたら、それらを利用した全く違った作品になるでしょう。
 教師は、子ども理解が出来ているならば、子ども達が自分らしく表現できて遊べるように、事前に教室に必要で有ると思う物がある環境を創っておくでしょう。
 また、その活動時間にも、子ども達に適切な関わりをするでしょう。
 教育活動を見せてもらう物は、物的な環境と、人的な環境である教師の子どもへの関わり方をみながら、それらの環境と出会った子どもが、どのように、遊びのストーリーを意味ある良いものに動いていくのか、その生の物語を見せてもらいます。

教師も子どもと歩む中で「発見的理解」をしながら、良い環境を提供していきます。見ているものも、今起こっている遊びのストーリーを「発見的理解」しながら見守ります。
その先生の教育活動の指導を見せていただくことは、本当に値打ちの有ることだと思います。

和歌山市幼稚園研究会では、近々6つの研究保育がなされ、公立幼稚園の全教師が参加し、子ども達の活動を見せていただき、教師が教育活動をどうつくっていけば良いのかを話し合います。
 実りある会となってほしいと思っています。

 日本の美しい「実りの秋」の始まりです。教育の世界においても「実りの秋」となるように、研究ほい木の機会を大事にしたいと思います。
 1時を回った今の時間です。夜中のラブレターと同じで、気持ちだけが先走りしているかもしれません。でも、今、研究授業の見方のことで、メモしたくなったのです。幼稚園研究会会長の夜の独り言かも知れません。


老婆心ながら、・・・「ストーリーがみえなかった」だけでは、参加した意味が薄れます。
まずは、自分ならということで良いので、「その教育活動の、7つ、いいなあと思うところをメモする。3つの改善点をメモする」と、職員に言っています。研究保育を見に出張したときは、それを報告していただくことにしています。  
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2014年09月06日

幼稚園実技研修メモ(8月21日)

1.イエータッチ
2.イエー、よろしくね、あく手
3.イエー、よろしくね。肩持つ(肩持ち右へ30度)
4.イエー、よろしくね。ハグ
5.ミックスジュース
 手を広げ、左手ぐるぐる。もりもり。右手ぐるぐるもりもり。
 小さくなって、ひざ。手を前によって、しゃがんで、パーゴリラ。ゴリラ曲。
6.できた、できた。何が出来た。
握手。握手、握手で、パチ・パチトントン
7.なべなべそこぬけ 
 →手を離し、背中合わせ。やじるし 背中と背中をおしあいっこ。
 →つま先付け膝曲げ両手つなぎ。から、のばす。
  両足付け。足開き。手を押しあいっこ
8.背中同士くっつけてたちあがる。
9.握手・握手、違う一と2人組。握手握手パチパチトントン。パチパチトントンで手のおしあいっこ
10.背中地背中でおしあいっこ。
11.腕組み立ち上がる
12.握手握手パチパチトントン。パチパチトントン。握手でバイバイキン。
■フープ
13.フープ 座って 二人向き合い 横・・左右に回す
14.フープ 座って 二人向き合い 縦・・こっちあっちに回す
15.フープ 座って 二人向き合い 飛行機回し
16.ひっぱり前前電車
17.2人組前後電車→ストップで役割反対前後交替を繰り返す
18.2人電車ジャンケン勝てばフープもらう。負けたらパラ腹になり、勝ったチームの後ろ役
19.二人でフープ操る 右回り・左周り・横回し・上に差し上げ回す・・・
20.ジャンケン列車
21.フープ2人組。頃がして受け止める。
 ・3回回ってからフープ止めてキャッチ
 ・フープすべらしフープの中にジャンプして入り止める
 ・フープキックして
 ・相手が、フープの中をくぐる

21.イス採りゲームから2人遊びに。尾となっている間は、歩き、音とまるとイスに座る
22.イスを一つ採るが、全員が座るように考えたイスとりゲーム。・・・2人座る。横に、重なって。
23.2人組・・・座って向かい合い、手で押し合う
       背中で押し合う
       背中で二人で立つ
24.出来た出来た。何が出来た。3人組が出来た。
       座って向かい合い、手で押し合う
       背中で押し合う
       背中で二人で立つ
24.3人組のチームの名前を決める
25.出来た出来た、何が出来た。「おでん」出ない人と3人組
       座って向かい合い、手で押し合う
       背中で押し合う
       背中で二人で立つ
26.3人組みの名前を決める「ピラフ」
27.おでん集まれ・・・手・背中・立つ
       ・3人足を合わせ上に挙げる
28.出来た出来た、何が出来た。「おでん」出ない人と3人組
       ・3人馬→役割交替
※扇・馬
29.二列。中央フープまで走って取る
30.真ん中でフープ回して、回っている間に立って交替。・・・くるくるタイマー
31.エンドレスリレー
 一周回ってバトンを渡す。バトンタッチの所にイス。
32.肩に手を置く3人組電車で先頭がボール持ち。違う電車とボールタッチ
33.2人組背中合わせ・・・ボール回し「おとなりへ・おとなりへ」
34.ボールを2人でわたし合う
 ・バウンドパス・うえにほりパチパチキャッチ・ボールの上でパチキャッチ・ボール下でパチキャッチ
 ・右手片手キャッチ・おしり止め・おでことめ・
 ・投げる人がどこで取るかを指示→右手でとれ
 ・右野菜、左さかなと決め、野菜や魚を言いながらうける。
35.ボールでうける。ボールの上に乗せる。
36.ボール2個交互に上にほりうける。
  ・ボール一つが上。一つがバウンドパス
  ・バウンド交替
37.ボール集めゲーム。中央のボール4人で自分の陣地のフープの中に3こ集める。相手陣地からもとってよい。
38.バルーン
  ・泳ぐ
39.グーパー
40.足広げて飛行機・足くっつけロケット

※2006.8.21午後 私が会長をしている幼稚園研究会夏季研修の自分メモです。
oさんにこのブログにあげることを約束していました。たいへんおそくなりました。
参考になったでしょうか。よろしくです。




    





  





















  
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2014年08月26日

教育的意図がある環境に

今日、ある先生と話をしました。
ぼくなら少しサプライズがある二学期のスタートをするなあ!です。
大きい冷蔵庫の空箱三つならべ、お化け屋敷のようなものを入り口ふきんに。一週間経ったら、まんなかの部屋に窓つくり、カラーセロハン紙をはる。
カラーで、遊びを広げて、廊下の窓をステンドガラスのようにすることを子どもとする。

もうひとつは、保育室壁面。お月見の様子のものにする。しかし、花瓶もから。飾る台もから。「ここに乗せて置いたのに、お月様が食べてしまった」かな。なにせ、子どもと壁面をつくり、お月見の壁面を完成させていく。

のような話です。
さて、皆さんは、どんな教育的意図を持って、保育室の環境をつくるのでしょう。

具体的な取り組みを交流できれば、楽しいでしょうね。
私は、よくいうのです。
棚から牡丹餅も、受ける準備をしていた者が、その牡丹餅をうけられる。
準備しているからこそ、恩恵をうけられます。
二学期のスタートを切ることが出来るように、準備していますか?  
Posted by 未来 at 01:40Comments(0)

2014年08月16日

教師の支援。2つの形と、3つの支援の在り方

支援者としての教師の立ち位置がむずかしいと思っている。
さらに言えば、もっと学び合う必要があると考えている。経験的なものだけでなく、なんのためにそのような支援をしているのかを確かめ合う学び合いである。
そのためには、支援の形と在り方を整理する必要がある。

以下は、レクリエーション活動の支援の在り方から学んだことで、私の試案である。

支援には、2つの形と、3つの支援がある。
2つの形とは、環境作りの支援と、実際面の支援である。
環境作りの支援は、目の前に子どもがいないときの支援である。教室の環境を整えたり、保育の準備をすることである。
そこでは、子どもの思いを保育の場に活かす支援がなされる。

もう一つの形は、子どもを目の前にしたときの支援の形である。実際面の支援は、3つの支援に分けられるように思う。
①集団支援
教師がリーダーとなり、子どもを動かす在り方である。絵を描いたり、絵本を読んだり等の全体に対しての支援である。
②グループ支援
保育室で子ども達が自分の好きな遊びをしている。テーブルの場所では、粘土をしている。片隅では、電車ごっこをしている。それらの場所場所での教師の支援の在り方である。
③個人支援
まず、子どもが自発的に動き出している行為に対して、受容的態度を採ることである。あるいは、直接的な体験を大事に見守ったり、さらに促進する心的物的支援である。

①では、集団支援の様子は、「目的達成の言葉」の投げかけと、「集団維持の言葉」の投げかけを記録し、吟味することで、支援の在り方が浮き彫りになってくるように思っている。
②と③では、援助の方向をどう考えているかを支援者も語ることが出来る必要があるし、周りの教師もその支援の在り方を互いに吟味できるようになることが求められる。
私は、ひと言で言えば、「遊び」を保障する雰囲気を伝えられているかと言うことになるように思う。遊びは、自由であり、自発的な行いである。・・・自由にしていいんだという言葉と仕草の醸し出す雰囲気。あたたかく見守ってくれている言葉と仕草からの雰囲気。やる気の出るような言葉と仕草からの雰囲気。・・・ということになる。
そのような支援をするためにも、一人一人の子どもを理解しようとし、子どもの思いに寄り添い、今この子どものしていることの意味を大事にしながら援助しようとする姿勢があってこそ、「遊び」を保障する支援ができるのだと思っている。



※さて、保育がうまくいかない。あるいは、保育が上手でないのは、この支援の在り方のどこかがうまくいっていないと振り返ってみる必要がある。
それ以前のこともあるかもしれない。
例えば、支援の全てが、言葉と仕草のコミュニケーションである。それが上手くないという場合である。
どの相手に声を届けたり、思いを届けたりしているのかがはっきりせず、声をそこに届けるのではなく、一方的に声を周りにまき散らしていたりする等である。
大声で、無意味に、相手のために出なく、自分を落ち着かせるために出しているような言葉や声である。もうこれらは、論外である。が、これも含めて周りの者が指導し、組織全体が成長していかねばならない。教育者として、目の前の子どもの成長発達を保障するために。


※蛇足
幼児教育歴の短い者が、今思っていることなので、未熟な考えであると思います。
皆さんの、補足するような、あるいは訂正するようなご意見等をいただけたらと思います。
「支援」ということも、経験的なものだけをたよりにし、整理し、互いに学びあえていないのではないかと、思っているので、今の時点での自分の考えをメモしてみました。
8月16日3時5分
深夜に書くラブレターと同じで、明日あらためて見てみると赤面するような内容なのかも知れません。

  
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2014年08月15日

自己有能感を育てる遊び

参観させていただいたある保育の一コマ。5歳の子どもが、車を作っていた。もうダンボールで車の形になっているのだが、ハンドルを取り付けようとしている最中だった。
ダンボールに割り箸を差し込み。ハンドルが回るように工夫されていた。しかし、反対側からハンドルに使った割り箸が飛び出しているのが気に入らない。それをハサミで切ったり、ガムテープで出ないように貼り付けたり。
自分の課題に全力で取り組む姿がある。それを担任も、周りの仲間も肯定的に見守っている。
やっている子どもは、自分が試行錯誤してやっている努力や工夫を周りから認めてもらっている空気が伝わるので、意欲を持ってそのことに没頭している。
なんとかしてこのハンドルをうまく取り付けようと子どもなりの智慧を働かせ、工夫し、全力で頑張る姿があった。この姿を見ながら遊びに没頭した中に根性や忍耐も目標に向かう強い意志などが育まれているすばらしい場面だなあと、しばし見守った。
このような「遊び」の中から、やればできるという気持ちや、また挑戦してみようという意欲など、自己有能感が育っているのだと思った。
保育者として、子どもが何かに挑戦する姿をあたたかく見守るその支援する姿こそが、大事なことだと思っている。

もちろん、保育者は、リーダーとして指示して全体を動かす場面も多くある。
もう一方で、子どもが好きにことをして、しっかりと遊ぶ姿を肯定的に見守り、さらに熱中したり、意欲的に遊ぶ姿になるように、適切な支援が出来るセンスを身に付けたいものだと思う。

子どもと囲碁将棋、オセロなどをする。
いとも簡単に、こちらが勝ってしまえば、子どもの意欲がそがれてしまう。
野球が上手いお父さんが、キャッチボールをしようと子どもがさそってきたので、ここぞとばかりに、鍛えようとしたら、二度とお父さんとは、キャッチボールもしたくないという子どもに育った実話が近くにある。
子どもの可能性を十二分に発揮させるための支援の在り方を学ぶことが大事に思う。  
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2014年08月14日

夏休みに、①環境整備②リフレッシュ③研修

夏休みにすること
①環境整備
幼稚園全体の環境整備が第一。「環境で教育する」のですから、環境が整わなければ、そこに教育が大事にされていないことになります。図書室に入れる本を今事務的処理しています。園庭と、畑も維持管理をきちんとしています。2学期がスタート出来るように。
担任は、9月の掲示と、教室の油ふき。それに、二学期の大きい行事の下ごしらえ。このような具体的な環境整備が大事です。

②リフレッシュ
自分のエネルギー補給。30人の子どもと1日を共に過ごすのは、大変な重労働です。
幼稚園ですから、安全を守る「子守」だけの役割ではありません。これだけでも大変なことだと思いますが。
子どもを理解し、その子どもの持つ可能性をしっかりと引き出すような教育をしています。
自分にエネルギーがあるから、積極的に子どもに関われます。健康で、笑顔がでるように、リフレッシュするための時間でもあります。

③研修
子ども達の長期休みは、一つの節です。教師も今までの自分と違った、新しい自分になって、更により良い教育をすることができる自分へのパワーアップできる時間です。
二学期第一週の現職教育の場で、夏休みに学んだことを互いに教え合う、報告する時間を設けています。互いに夏の期間に成長したことを学び合いたいと思います。  
Posted by 未来 at 16:55Comments(0)・幼稚園雑感

2014年08月03日

夏の仕事(雑感・雑用)・・・自分に頑張れと励ますために・・・

1.図書の本を読んで感想を書く。
図書の本を園で買っている。ひとつは、1学期の最後に保護者アンケートをとり、図書で購入希望の本を出してもらった物。もう一つは、図書の専門誌の推薦本。合わせて、50冊もあるだろうか。
新しく園に入った本は、私が読み三行感想を書くようにしています。そして、図書室で新刊の掲示をしたり、様々な形で知らせることにしています。今回なら、毎月出している「出あい、ふれあい、絵本だより」の9月号でほんの紹介をしようと思っています。なので、夏休み中に読む予定。

2.雑誌に連載される原稿半年分をかきあげる。
1年間「月刊学校教育相談」に毎月2ページの文を連載させていただいています。はじめは、半年、6回分という約束で書いたのですが、それが1年ということになりました。有り難いことですが、終わる予定だったのに、また、半年増えて、1年半の連載と決まりました。
私は、生きるのは一回だけという意味で、恥かき、汗かき、文書いて、プログラムも書いて、・・・で、どのようなことでも断りません。
しかし、半年6回で、ゴールだったのが、1年の12回にと言われ、やっとゴールにつくと思ったら、あと、6回言われると、・・・。一応、6回分を見通して原稿も書き、改めて再度6回分を書き、なんとかがんばりました。
さて、この10月号から来年の3月号をどのようなまとまりで書くかが、真価が問われるところです。
ちょっと、頭を振ってもネタが出ず、苦しんでいますが、約束したのですから、この夏休みに何とかしなければと思っています。

3.体重・・・減量
「夏中トマトを主食」で、ぐんと体重を落とした人が身近にいます。私もしようと思いましたが、トマトだけでは、過ごせません。自分で自分をコントロール刷る力が弱いから太るのです。せっかく食べることを控えていても、外での会食があると、2㎏か3㎏増えて帰ってきます。その体重が元にもどってきたら、又会食がある状態です。
さらに、今日でもテレビとパソコンにこもりしてもらい1日を過ごす、ぐうたらぶりで過ごしているので・・・。しかし、チョットは減量しないといけません。希望減量は5㎏としておきましょう。


  

2014年07月20日

幼小連携のための一歩 試案

小学校の心ある教師に提案し、幼稚園・小学校の合同で、研究の第一歩を進める。

Ⅰ.はじめに
 子どもの発達や学びの連続性を保証するために、幼小の接続器の教育をどういうふうにすればよいのかが問われ、試行錯誤されている。
 今ここに、困っている子どもがいるのであるから、現場の人間であり、子どもの成長を願う教師は、この問題に対して、真摯に向き合う必要がある。私たちも微力ではあるが、幼稚園の教師と、小学校の教師とが、初めて膝を交え、この問題への第一歩を切ることにした。

Ⅱ.取組
1.最初の一歩
①現状認識と共通理解
②互いに参観し理解の一歩を
③無理のない継続的な園児と、児童の交流の計画

2.交流実践
①1年生と、幼稚園年長の交流
②長期休暇を利用しての職員の交流
・幼児期の終わりまでに育てたい子どもの姿を共通理解することができた。
③幼稚園と小学校の教務主任が、幼稚園における「アプローチカリキュラム」と小学校における「スタートカリキュラム」の検討


Ⅲ.成果と課題
1.小学校・幼稚園の教育課程・指導計画に交流活動を位置づけ
・園と小学校が全体で、意図的計画的に行うものとしての位置づけが初めて出来た。

2.校長・園長がリーダーシップをとりながら、互いの教職員が幼小連携の必要性を共通理解
・幼稚園と小学校における教育の違いと共通端を互いに理解する営みとなった。

3.幼稚園における「アプローチカリキュラム」と小学校における「スタートカリキュラム」を共通のものとして協力しながら再編成
・接続のための教育を互いに見直す機会となった。

Ⅳ.おわりに
 「はじめの一歩」というテーマでの取組である。今、まさに動き始めたところであると言える。この取組を一過性のもノトせず、二歩三歩と歩み続け、今後内容の面でこれから徐々に検討を加え、子ども達に学びの連続性を保障していきたい。  
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2014年07月20日

食育 素案

はじめに
 食べることは、幼児の体と心の成長に直接関わることである。また、毎日のことである。
 本園では、幸いにして、園に隣接した畑をお借りし、四季折々の食べ物を育てることが出来る環境にある。
1.取組

①植える

②育てる
③食べる
 畑でとれた物をいろいろな形で、みんなでいただいた。
 食べることだけでなく、子ども達が出来る範囲で、調理にも加わった。調理をするということは、食べ物を大切にする気持ちもでてくるだろうし、ひごろ料理をしてくれている家族の人への感謝の気持ちも湧いてくる。
 旬を感じる食材をみんなで味わうことは、食べる楽しさを体験することとなりました。

④好き嫌いをじぶんで克服しようとするあそび
ア.もりもり元気君
イ.「元気城と、へなへな城」

⑤食べるを生活の一部として
ア.図書の活用
イ.視聴覚教材として

⑥保護者にも食べるの活動に加わっていただき
ア.親子クッキング「簡単朝ごはん」づくり
イ.食の講演会
ウ.試食会
家庭での食生活について考える機会となった。

2.保護者アンケートから

3.成果と課題
 子ども達に、自分たちが植えて育てたパプリカを細く短冊切りにし、さっとゆでで味わってみた。
 パプリカを切る際には、シシトウのような鼻を突くような刺激のある匂いがただよい、子ども達はこのようなきつい匂い香りのある物は食べられるだろうかと心配した。しかし、子ども達は、興味をもってその味を味わい、マヨネーズを付けると、おかわりもしながらおいしく食べた。
 少し嫌いな物でも食べようとする意欲のあらわれが出た様子である。それは、みんなと一緒に食べたらおいしかったという楽しい経験でもあった。

おわりに
 年度当初、園環境に立派な畑があり折角の機会でもあるので、十二分に活用しようと教職員で話し合い共通理解を持ちスタートできた。うね作り等、子どもが畑での活動できるように準備をすることは、なれない職員にとっても大変なことである。また、子ども達も朝の体操の後にペットボトルに水を入れて水やりに行ったり、草抜きをしに行く。しかし、子ども達の力だけでは水やりと、雑草の手入れは十分ではない。放課後の水やりと、週一回の全職員に夜草抜きをしている。四季折々の食物を育てることは、職員の準備が必要となる。全職員の共通理解があるからこそ、子ども達の取組が出来ている。
  
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2014年07月06日

行事記録綴り・・・記憶より記録

「積み上げ」とは、「つむ」ものがなければ、積み上げられない。
石垣と同じように、1つ1つを積む必要がある。
行事の反省は、必ずしているが、それが積み重なっているだろうか。昨年度の行事が手元にあり、その行事の反省がメモされていて、それを『組織として』理解していて、今年の行事を創っていくことが大事。
行事記録として、園に一冊は有るが、各自のものとなっていない現状がある。
※本来は、4月当初からしたらいいのだが、気がついた今からしたい。
 各自が、「行事綴り」を持つ。
①その行事の係の先生が、「行事計画」を印刷し、園長に渡す。
②印刷された行事計画案を、園長が糊でルーズリーフに貼る。
③「行事計画」会議にかける。
④行事の反省会の際にそこにメモを残しておく。

※この②がしていないことなので、印刷されたペーパーが保管出来ている人と、そうでない人が出てきている。
なので、係の人が作ったプリントを園長に提出してもらい、園長が貼って、会議の資料を出す教務に渡すことにしたら、各自の手をわずらわすことがないから、年間を通して出来るだろうと、今は思っている。
単純なことだが、職員全員がこのようにしておくと、次年度に変化が出る。
(私自身は、「年間行事綴り」を一冊の本に出来るように、パソコンの中に入れている。)


蛇足であるが・・・
幼児のより良い発達を願い日々の保育を頑張っているのだから、保育の記録を自分のノートに書くことが大事になる。
誰が、誰と、何をして遊んでいたのか。なにを困っていたのか。教師は、どうしたのか。今後どう援助しようと思っているのか等々である。
小学校の教師の方が、メモがとれている。それは、時間的に余裕があるからだろうか。
記録がとれないのは、保育記録をとっても、十分活かすことが出来ないから、とらないようになるのか。「教育」というより「保育」に精一杯になってしまうからか。

 先日、研究会に参加した。3歳の遊びの一つに「小麦粉ねんど」の場があった。「ねんどの遊びをし始めたのは、いつからですか」の問いに、「○月○日からで、、今日で○回目になります。はじめは、白い粘土だけだったのですが、まず○日に型抜きの道具を出しました。そのあと、○日から○色にした粘土も用意しました」と、応えていた。
 あそびを記録しているから応えられるのである。そのような教師は、小麦粉の「中力粉」「薄力粉」を実際に試している。堅さについても、考えている。型抜き遊びがうまくできる堅さの工夫もしている。
 この先生がそうであるように、記録を書く教師は、「教育」をしようとしている教師である。
 記録がなければ、教師の意図的な教育がわからないし、子どもの変化を読み取れないので、「教育」というより「子守」に近くなる。

 悲しいかな「記憶は、すぐに忘れる」。しかし「記録は残る」。
 メモでいいから、ノートに記録したい。普段小さなメモ帳を持ち歩いてメモをしているなら、それをノートに貼ったらいい。そして、マーカーで印を入れたり、ノートに付け足したりすると、十分記録となる。
  
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2014年07月05日

名前を呼ぶ回数

1日で、子どもの名前を何回呼んでいるだろう。
誰の名前を呼ぶことが多いだろう。

ともすれば・・・・
教師は、6人グループの子ども達を呼ぶときに、そのグループの同じ子どもの名前ばかりを呼んでいないだろうか。
グループのリーダーだからその子の名前を呼ぶのですと言った、教師の理屈を付けて・・・。
6人のグループなら、出来るだけ順に、みんなの名前を呼んであげてほしいのです。

先生に、名前を言ってもらいやすい子がいるということは、言ってもらいにくい子がいると言うことなのです。
一度、自分がどの子の名前をよく呼んでいるのか、振り返ってほしいのです。
ふだんの在り方、教師の人権感覚というものだと思うのです。
  
Posted by 未来 at 11:17Comments(0)

2014年06月29日

ぞうきんがしぼれる手に(毎日のぞうきんがけ)

毎日ぞうきんがけをしている。しかし、教師の「意図」が、組織として明確になっていない。
「ぞうきんがしぼれる手に」を目当てとしたい。
3歳は、先生がぞうきんの絞り方を毎日見せながらのぞうきんがけの掃除になる。
4歳では、自分で絞る子も出てくるだろう。
5歳では、ぞうきんを自分の手で「絞れる手」にする。

各クラスに、7こずつちいさめのバケツが用意している。しかし、たくさん使われていない。
じぶんで絞る毎日の体験を重視していないからである。
「しぼる」ということを、教師がしっかしと意識的に持っていると、バケツもでてくるはずである。

もちろん、裏の目的は、逆さ感覚をやしないながら、腕で自分の支えることが出来るようにし、全員が逆上がりが出来るようにすることである。

  
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2014年06月07日

遊びと、教師の役割

遊びとは、生活全てである。なので、生活における教師の役割と言ってもよい。
間違った保育者は、例えば、6月なので「カタツムリの制作」を子どもとする。それが、授業と思い、そのあとは「休み時間」のように、考えている様子がうかがえる。
悲しいことである。
1日の全体をひっくるめて、子どもの学ぶ場ととらえる必要がある。制作をしている場だけが、遊びすなわち学びの場ではない。

さていろいろな遊びが展開している。
遊びがおもしろいから、子どもが主体的に関わろうとする動きが見られるようになる。より、このあそびをおもしろくしよう、より楽しくしようと、主体的な動きが出るためには、そこに「適切な環境」が必要である。
環境にぬけてはならないのが「保育者のありかた」という人的環境であると思っている。
保育者が、ただ放っておいても遊びの発展がとぼしくなる。教師が、子どもを理解して、子どもが燃えるためのガソリンと、熱を加えることで、子どもが勢いよく燃え楽しい遊びが展開されるようになる。

教師のセンスといえば、それもないことはない。「斉藤の名人芸の跳び箱指導」でないけれど、私たち平凡な教師でも、何が大事なのかを法則化とはいかなくても、一般化させる必要がある。

私案として、自園教育計画にのせている。「良い保育とするために」である。(機会が有ればどうぞ)
まず、その下敷きとなるのは、マズローの欲求五段階説であると思っている。
その上に立って、「子どもとあゆむ」姿勢である。子ども理解と共に、共に時間を過ごし・・・時間の共有、そして、共に喜ぶ・・・共に感じる、ことである。そして、半歩先をイメージし教師が一番楽しむ心を持って環境を創っていくことである。

教師が、大声を出しながら、保育している姿は、共に生活している姿ではないから、その保育は、間違っているだろう。そこに一緒に歩んでいる姿から、良い保育というものを探っていきたいものである。子守でなく、自分が教師であるなら。  
Posted by 未来 at 12:46Comments(0)・幼稚園教育

2014年05月10日

研究のスタート「記憶より記録」

先日、幼稚園研究会総会がありました。
今年度、研究会会長を仰せつかり、挨拶をさせていただきました。

さて、この研究会では、昨年に引き続いた取組がなされます。
「公立幼稚園の全担任が自分の実践を園の外に発表する」です。
私は、大変すごいことであると思っています。

年に一つは、自分の実践をまとめておくことが、大事なことだと思っています。自分の仕事をした生きた証となります。
今までも、園の中では、全員が授業をしていたのですが、やはり、園の外に出すのと、出さないのとでは、「濃さ」が違います。
前年も、全員が指導案を書き、実践語の考察を書いたものが配られました。私は、全てを読みました。本当に、汗と涙の結晶と言って良いほどのすばらしい物でした。自分が実践し、自分が学んだことを書ききっているのです。それを公立幼稚園の全職員が読み、学び合うことをするのですから、自分たちの「教師力」アップにつながる大変すばらしい取組です。

時代がそうさせるのでしょうか。
今こそ、「教師力」をつける必要があると思っています。5年後でしょうか。幼稚園が「子ども園」となるようです。
そこは、「幼児教育」が行われる園になるのでしょうか。「子ども園」が、幼児教育がしっかりとなされる場所になるために、その構成員となる教師全員が、その資質を持つことが必要です。しっかりとした「教師力」を持つ人が集まれば、そうなると信じています。

それでなくても今、地域や保護者に信頼され、質の高い教育実践するためには、園の中の教育実践者である一人一人の教師が、自園のカリキュラムに位置づけて、幼児教育を実践する「教師力」が、必要であると、感じています。

応えていくためには、「園内研究」が、大事になります。
私の園でも、3人の担任が自分の保育案を書き、研究保育をする際には、職員全員で何度も相談し、話し合う場面があります。そのことが、自分の教師としての力量に直結することだと思います。そして、明日からの保育に生かされる貴重な歩みです。
「研究」とは、楽なことではなく、普段の保育だけでも精一杯であるのに、その上に仕事量が増えます。本当に大変なことです。しかし、乗り越えたときは、自分の成長を自分なりに感じることが出来るのは、確かです。

私は、「記憶より記録」と、なんども職員に言ってます。
①会議の時は、ノートを広げておくこと、
②1日の振り返りの時間には、ノートに個々のメモををとっておくこと。

私自身も、メモを取ることがめんどうで、十分とっていませんでした。でも「ごんぎつね」の授業をするときに、大学ノート1冊にごんぎつねの文章を写し、行間に教材解釈を書いて、一冊使っているノートが、今手元に残してあります。若い教師が何人かで、ある先生のオタクにおじゃまして、勉強会を何度もしていただいた思い出が有ります。毎日夜遅くまで、ごんぎつねの教材解釈をする日が続きました。そのような先輩がいてくれたことが幸せでした。何か研究授業をするというときは、その先生に教えていただくために、そのお家に行かせていただきました。

その後、特別活動の近畿大会で発表する機会がありました。子どもの様子や学級のことをメモを取り出したのは、これがきっかけでした。記憶は、すぐに忘れ去ります。記録は残ります。有り難いことです。
また、それがついています。

そのメモを見てくれた出版者の方から、ある日突然に、「あなたが・・・・を書かれた人ですか」とのメールが届き、月刊誌に、書く機会をくださったりもしました。
書いていたからのことです。

ちと、残念なのが・・・
私の時代は、パソコンでなく、ワープロ時代でした。「書院」に書いているメモです。あの実践をもう一度読みたいと思っているのですが、「パソコン」ならありますが、書院に入れたものが、すでに行方不明です・・。

ところで、昨年の実践冊子を見ていても、メモを書いて残している人のは、記録がありそれが指導案の経過の部分であったり、着目児の遊びの変化であったり、考察における教師の支援と子ども達の様子の変かであったりと、ストーリーとして書いています。
やはり違いがあるのです。

全担任が、自分の実践を園外に出すということを機会に、「記録」を大事にできたらと思っています。


蛇足ですが、記録が有れば、保護者への「課程連絡簿」も、書くことがいっぱいあり、一人一人の子どものことを伝えられます。

そうそう、あいさつでは、「1+1が2でなく、3にも4にもなると思います」ということを最後に言いました。ひとりひとり の実践ですが、園みんなでの取組により、園全体の教育力アップとなり、それが公立幼稚園全体の教育力アップとなる取組です。「一人の一歩」でなく、「みんなで一歩」の取組を 今日から始めていきましょう。  
Posted by 未来 at 10:35Comments(0)・幼稚園教育